秩父市のAODインプラント CT相談室 落合歯科医院

院長から患者様へのメッセージ

院長プロフィール

昭和44年 栃木県宇都宮市 生まれ
平成5年 明海大学歯学部 卒業
平成7年 埼玉県秩父市にて開業

所属学会

日本顎咬合学会 認定医
日本口腔育成学会

もう「歯を抜いたり」「削ったり」したくないんです。

歯科医師になり約20年が過ぎようとしています。
様々なセミナーに参加して知識と新しい技術を勉強して患者様に還元すべく努力してきました。
そのようにして日々の治療にあたっていると、難しい症例を治療したときの満足感が得られるのと同時に、治療の限界を感じることも起きるようになりました。これは考えてみれば当然のことで、いくら綺麗に、精密に治療をしても、それは所詮人工物であり劣化するし壊れます。

もちろん治療にあたる前には、検査をして歯がなくなった経緯を調べてからそれを繰り返さないように治療計画を立てるのですが、そうしていても除ききれないリスクがある場合には、やはり治療後の持ちが悪かったりするのです。

20年間多くの患者様のお口の中を見せていただき、今更ながら気が付いたこと、それは「そもそも、虫歯や歯周病にならなければいいのではないのか。そのためには予防が必要不可欠ではないのか。」ということです。
今更こんなことをいうのは恥ずかしいのですが、至極当然のことです。もちろん治療に対する高い技術は必要です。これも間違いのない事実です。でももっと大切なのは“予防”なのです。
天然歯(もともとの親から授かったご自身の歯)ほど、丈夫で美しいものはありません。

診療室で、

ドクター 「虫歯が深くて、神経をとらなければなりません。」
患者様  「あ、いいですよ。とっちゃってください。」

こんな会話が日常的に行われていてはいけないのです。
患者様に「神経取ってください」「抜いちゃってください」と簡単にいわれると、がっかりしてしまいます。
もっと歯の大切さを伝えて、予防をしっかり定着させないといけない。今強くそう思っています。

雑誌「PRESIDENT(プレジデント社発行)2012.11.12号」にて、掲載された「リタイア前にやるべきだった...」後悔トップ20という記事がありました。その中で、驚きなのは「歯の定期検診に通えばよかった」という後悔が最も多かったということです。
このアンケートは、シニア1000人から集めたアンケート結果をまとめたもので、「歯の定期検診を受ければよかった」と答えた人は283ポイント、約3人に一人はそう答えておられるということです。
男女別でも、男性は歯の定期検診が第一位、女性でも第四位に選ばれています。

歯の定期検診が選ばれる理由の一つとして、歯周病が糖尿病の原因になることも上げられています。
歯周病は日本人の約8割が患っていると言われている病気で、年齢と共にその症状は進行していくのが特徴です。歯周病菌は口にとどまらず、内蔵に入り込むとインスリンの活動に障害を起こし、糖尿病の原因になるということが分かっています。もちろん、歯周病菌は口腔内も破壊しますので歯を失い、糖尿病との併発は、即ち食の楽しみを失う事になりかねます。

歯を失うと家計まで苦しくなる

虫歯も歯周病も進行が進めば進むほど治療が困難になり、期間や費用もかかってきます。
また、歯を失ったとき、インプラントなどの高度な治療を受けようと思うと、保険が適用されません

とはいえ、ほとんどの人が「入れ歯はイヤ」だったり「入れ歯は合わない」といって付けないことが多いようです。
結局、QOLを考えるということでインプラントを選択される方はたくさんおられますが、実はそのほとんどは定期検診で防げたかもしれません。

インプラントは1本40万円以上です。確かに素晴らしい治療ですが、天然歯に勝る歯はありません。自分の歯を大切したいなら、是非定期検診に通ってみてはいかがでしょうか
インプラント1本に40万円お金をかけるなら、家族で旅行に行ったりおいしいものを食べたりした方が、より生活の質を上げるのに効果的だとは思いませんか。

どんなに高いお金をかけて治療してもそれは延命処置にしかすぎません。
是非、皆様の大切な歯を守るお手伝いをさせてください。

院長 落合貴史の生い立ち

私 落合貴史は1969年(昭和44年)2月6日、教師である父、理学療法士である母の二男として、栃木県宇都宮市で生まれました。 父親は私が中学2年くらいまではとても厳しかった思い出があります。よく殴られもしました。今思えば、その時の父親の気持ちも理解できますし、感謝もできますが、当時は父親に叱られるのがとても嫌でした。

1969年 テレビでは、「8時だよ全員集合!」「サザエさん」の放送開始。
世界的にはアポロ11号が人類初の月面有人着陸。また西武秩父線が開通した年でもありました。

保育園時代

両親が共働きということもあり、0歳6か月から6歳まで保育園に通いました。
遊びの中で友達の手を引っ張っていたらその友達の肩が脱臼してしまったこと。
おやつの時間に飲む表面に幕の張った温かいミルク。
昼寝の時間みに押し入れの中に布団を敷いてもらって寝た事。
その昼寝の時間に流れていたクラッシック。
園庭に置いてあった古くて動かないバスの中で吊革にぶら下がったり、シートのクッションで跳ねたりして遊んでいたら、ガラスを割ってケガをしたこと。
夕方両親が迎えにくる時間に、テレビのアニメやヒーローもの(当時 バロムワン、レインボーマン、キカイダーなど)を見て待っていると、友達の親が迎えに来て、自分にはなかなか迎えに来ない、外は日が暮れ暗くなっていく、ちょっとさみしい気持ちになったこと。
迎えに来てくれた両親の車の中で聴いたラジオのCM(当時決まって文化放送が流れていたような記憶があります。) など保育園生活での断片的な記憶だけが残っています。

小学校時代

小学校の入学式の前日、入学する予定の小学校の校庭で遊んでいたとき、丸太の一本橋から落ちて左の鎖骨を骨折。その時頭も打ったらしく、数分間帰りの道順がわからなくなったことを覚えています。
入学式にはギプスをして参加しましたが、その後1か月くらい学校を休んでいました。

両親が共働きのため、学校から帰っても家に誰もいないので、6歳上の兄と共に祖父の家の学区にある小学校に通っていました。
朝 父に祖父の家まで車で送ってもらい、そこから登校。学校が終わると祖父の家に帰り、父から出されたドリル(国語と算数だったような)をやって、遊びにいくという生活でした。
その頃の私は、その父がだす毎日の勉強課題をするのが嫌で、よくドリルの後ろについている解答を見ながら文末だけ少し変えて写して終わりにするということをして怒られていました。それも何度もでした。
今自分が親になって考えてみると、その当時父も母も、この子はなんでこんなに嘘をついて、やってはいけないことを繰り返すのだろうと悩んだことは、想像に難くありません。

子供の頃の私は 虫歯だらけだったように思います。歯が痛くて泣いた記憶や歯医者さんに一人で2年生の頃から通っていた記憶があります。両親は仕事をしているので、祖父の家から近いところに一人で通院していました。治療に通う時は、保険証と診察券を持たされました。「保険証は大切なものだからなくさないように」といつも念を押されたのを覚えています。

その当時の歯医者さんは、予約制ではなく診察券を出した順番で治療を受けていました。待合室がこんでいる時は、診察券を出して、友達と遊びに出かけ頃合いを見て帰ってくると、自分の順番はとっくに過ぎてしまい、自分より後の入ってきた人が先に治療を受けていたということもありました。
昔の歯医者さんは今と違って手袋ははめず、素手で診療していました。先生はちょっと空いた時間があると診療室内のついたての反対側に行って、たばこを一服 そしてそのタバコ臭い手のままで治療再開 今では考えられませんが、当時はそれが当たり前だったのです。待合室にも大きなガラスの灰皿が置いてありました。
歯医者独特の薬くささと、タバコのにおいが、私の子供の頃の歯科医院のイメージです。

小学校の5先生くらいの時に、いとこ同士で鬼ごっこをしている時に、誰かを捕まえるつもりで勢いよく飛びつきました。それも目隠しをした状態です。しかし飛びついたさきは、いとこではなくオルガンの角だったのです。
そしてオルガンに歯型が付くほど前歯を強打して、目の前に星がちらつきました。次の瞬間「歯が抜けちゃったよう」と血だらけの口元を抑えながら大泣き。すぐにタバコ臭い歯医者さんに連れて行かれました。
幸い歯は抜けずに済みましたが、前歯二本とも歯の神経は死んでしまい色が変わってしまいました。
その前歯は根の治療を受けそのまま保存してありました。中学に入ってそのうちの一本がかけてしまい、その歯医者にいくと「かぶせるから この次7万円持ってきてね」といわれ 仮歯も入れてもらえないまま、次回まで過ごしました。仮歯のない状態での生活は、結構カッコ悪く恥ずかしいものでした。
親に7万円をもっらって歯医者に行くと、色の合わないただ白いだけのセラミックの歯を入れてもらいました。
当時はそんなものだったのでしょうか。隣の歯は死んでいる歯のままでしたから、前歯の2本が、白と茶色という全く違うままで何にも気にせずそれを当たり前のものとして受け入れていました。
後にこの歯は、根の先が膿んでしまい抜歯をしてインプラントに置き換えました。

中学・高校時代

中学校では、軟式テニス部に入部しました。公立の中学でしたが、部室では先輩がタバコを吸ったり、シンナーを吸ったりしていました。(注意:私はしていません)。結構学校が荒れていた時代だったのかもしれません。そんな環境の悪いところでごくごく普通に中学生活を送っていました。ただし部活は長続きせず、テニス部を1年で辞め、その後柔道部に半年、その後は何もしませんでした。

高校は県立の中ぐらいの高校に入学しました。そこでも部活動には入らず、学校が終わると帰宅するという生活でした。今思い返しても、本当に高校生の時は何をしていたのか思い出せません。何かに夢中になったわけでもなく、部活動もやらずに、ただ親にだけは叱られないようにという意識で、生活していたのかもしれません。
今さらながら、一つくらい何か一生懸命取り組んでおけばよかったと後悔しています。
そんな高校生活を送っていた3年生の夏、突然父親から「歯科大の試験を受けたらどうだ」と告げられました。
それでも悩んで担任との面談でそのことを相談したところ、担任が「俺がお前の立場だったら迷わず歯科大へ行くけどな」といわれ決心し、歯科大を受験しました。
そもそもなぜ私の父が歯科大を私に勧めたのか、それは私の祖父が身内から医者や歯医者を育てたいという夢を持っていて、その夢をかなえるべく祖父の二男である私の父が、私の歯科大への進学を勧めたというのが理由だそうです。

これは後で聞いた話ですが、歯科大受験の話は、父親が勝手にきめたことで、母親には何の相談もなかったそうです。
この時の父親の提案がなければ、わたしが今こうして歯科医師として仕事をしていることはなかったでしょう。
両親には本当に感謝しています。

大学時代

城西歯科大(現 明海大学)に無事入学できたあとは、大学前の6畳一間のアパートに住み、講義が終わると友達が集まるたまり場になりました。また毎日欠かさずパチンコに行くのが日課でした。大学時代も部活・サークルにも入らず、毎日パチンコ漬けでした。ほとんどパチンコ中毒で、儲かったときの快感が忘れられず、パチンコで生活費を全てすってしまい、毎日お金も持たずに友人がいるであろうパチンコ屋にはいり、友人からお金を借りてはパチスロを打つという日々でした。

そんな状態でギャンブルに勝てるわけもなく、1か月分の仕送りが振り込まれると、家賃を払って、そのほかは、友人への借金返済で全てなくなるという、ろくでもないダメ人間でした。後にそこから救ってくれたのが、今の妻である明子です。
学業は再試験を受けながらも(再試験を受けるためには1科目2000円のチケットを買う必要があった)留年することなく何とか進級していきました。

学年が進むごとに専門科目が入ってきてだんだんと大学生活も忙しくなってきました。とくに臨床(5年生から担当の先生について患者様の治療を見学する)に入ると、毎日夜遅くまで大学内に残ってレポートを書いていた記憶があります。このころには、今の妻である明子との交際が始まり、パチンコ生活から足を洗い、まともな生活を送っていました。

6年生になり臨床実習が終わり、はじめての国家試験対策の模試を受けた時には、内容がちんぷんかんぷんで理解できず、3割くらいの正解しか得られなかったことにショックを受けた覚えがあります。
そこでスイッチが入り、国家試験に向けての勉強が始まりました。過去問をひたすら解き続けては模試を受ける、その繰り返しでした。その甲斐あって、卒業試験は1発合格。国家試験も1発合格で、歯医者の免許を取得することが出来ました。

卒業後

卒後は、同級生が大学の補綴科に残るというので、同じ科に残り様々なことを自分なりに吸収しました。もちろん大学では無給です。卒後もしばらく親に仕送りをしてもらっていました。

その後、夜のバイト、昼の週2日のバイトが許され、何とか自分で生活ができるようになり、仕送りを止めてもらいました。
そうこうしているうちに、私の父親から早く結婚しろといわれ結婚することに。
当時父親はまだ現役で仕事をしていました。自分が現役のうちに結婚させたかったみたいです。

明子が実家の家業である落合歯科医院を継ぎたいという希望から、私は婿に入り一緒に落合歯科医院を継いで開業することになりました。
それが秩父市相生町で開業することになったきっかけです。

開業してから

私が秩父で開業して間もないころ、入れ歯の調整を繰り返していた患者様がいらっしゃいました。その日も1時間以上調整をしてもうまくいかず入れ歯の削りかすだらけになってイライラしていた私に、「もう少しピタッとすればいいんだけど」と患者様がひとこと。それに対して「保険だとこれが限界です」と自分の技術のなさを棚に上げ、少し強い口調でその患者様にいったことがありました。 今でもそれを思い出すと、なんてひどいことを言ったのだろうと申し訳ない気持ちになります。今となってみれば、知識も技術もなく、気持ちに余裕が全くなかったのがわかります。全く恥ずかしい限りです。

またこんなこともありました。
自費の治療で全顎を治療し高額の治療費がかかった患者様の歯が、2年弱でダメになり、すべて抜歯に至ってしまったのです。
患者様はいい人で何の文句も言わず、総入れ歯に置き換えて納得してくれました。これはわたしが、どこかで見た治療法を、これと同じようにすればうまくいくと、その治療の真意を見極めず、上っ面だけ真似して取り組んだ結果でした。しかもその患者様は「先生も勉強になったでしょ」とやさしく諭してくれたのです。

このような経験から、しっかり勉強して取り掛からないと、患者様に迷惑をかけると思い、講習会に行き始めました。そして勉強することが、仕事を楽しくする、ということにつながるということにも気が付きました
今でも開業して間もない若造のいうことを信じてついてきてくれた患者様には、本当に感謝しています。

歯科医師になって20年、常に患者様に助けられてきたというのが今の実感です。患者様を癒すのではなく、私自身が患者様に助けられ、患者様の「痛くない」「よかった」「よく噛める」という言葉や笑顔に癒されているのです。
患者様を裏切らず期待に応えるべく、日々勉強してそれを提供し続ける必要があると考えています。

落合歯科医院第2章のはじまり

秩父に来て20年。開業当初子供だった患者様は、大人になり、結婚して子供を連れてこられるようになりました。
これから先、現在落合歯科医院に通っている子供たちが大人になり、結婚し自分の子供が虫歯にならないように赤ちゃんがおなかの中にいる時から、落合歯科医院に定期管理に通っていただき予防に関する正しい知識を得ていただく。それが出来れば、虫歯や歯周病はなくなると思います。
そうなったときに本当に笑顔があふれる歯科医院になると思うし、今からでも十分実現可能なことだと思います。

落合歯科医院は、治療する場所ではなく、虫歯や、歯周病にならないために通う場所となるべく、積極的な取り組みを始めています。そしてその医院を支えているのは、今いるメンバーがコアとなっていることが理想です。
もっといえば、落合歯科医院に通っていた子供が歯医者になりたい、歯科衛生士になりたいと思ってくれ、実際にそうなって落合歯科医院で働きだす。そんな歯科医院を目指したいです。

落合歯科医院第2章のはじまりです。
皆様(患者様)の笑顔であふれる歯科医院を目指して生まれ変わります。

患者様のお口の中の健康を守り、
幸せを噛みしめられるお手伝いをしていきます。

・・・歯の大切さ、予防の大切さを伝えていき、秩父市民のお口の健康を守り健康寿命を延ばすのが落合歯科医院の役目と考えます。